あの人のトライ:マルタ園 中根利枝さん
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愛知県岡崎市の「変わるまちなか」QURUWAエリアで、日々トライを続ける方々のお話を聞いていくシリーズ「あの人のトライ」。今回ご登場いただいたのは、市内北西部の中山間地域・駒立(こまだち)町で、1960年創業のぶどう園「マルタ園」に嫁いでスタッフとして働きながら、山とまち、社会と女性をつなぐ活動を続けている中根利枝さんです。
利枝さんは駒立町で生まれ育ち、高校卒業後はジュエリーや化粧品の販売員として勤務。マルタ園の次男・隆二さんとの結婚を機にUターンをし、就農されました。2016年に初めて岡崎市で開催されたリノベーションスクール(以降:リノスク)への参加をきっかけに、以前の「あの人のトライ」でもご紹介した、女性の「やりたい」をサポートする「wagamama house」をQURUWAエリアにオープン。そして2023年、マルタ園に戻って新たなトライを続けています。
「農家だけで農業の課題は解決できない」と語る利枝さん。山で育まれた感性とまちで培った経験や繋がりを活かしながら、山とまちの境界を軽やかに飛び越え、次なる一歩を踏み出す利枝さんにお話を伺いました。
聞き手は、QURUWAエリアにある「Okazaki Micro Hotel ANGLE」の平良涼花がつとめました。

駒立で育った幼少期と
康生での青春時代
——利枝さん、今日はよろしくお願いします。まずは利枝さんの生い立ちから教えてください。
駒立で生まれ育ちました。実家は石屋で、父は石の仕事、母は保育士をしていました。親が共働きだったので、祖母に育てられたんです。朝起きると、祖母が農業用の一輪車に私を乗せて、一緒に畑へ行く。それが日常でした。
3歳のとき、お弁当のお箸を忘れてしまったことがあって。祖父がその場で木を切って削り、即席でお箸をつくってくれたんです。「なんでも自分でつくれるんだ!」という驚きと誇らしさは、今でも鮮明に覚えています。
——自然がすぐそばにある環境で育ったんですね。
子どもの頃はまったく時計を見ない生活をしていました。朝はヒヨドリやシジュウカラの鳴き声で起き、日中は畑でめいっぱい遊び、カラスが鳴き始めたら家に帰る。今思うと、そういう暮らしの中で私の感性のようなものが育まれていたんだなと感じます。 段々と連なるぶどう畑の風景が、私のふるさとの景色です。
——駒立はぶどう狩りができるエリアとしてとても有名ですよね。
ぶどうのまちになったのは戦後からです。もともとこのあたりは日照時間が短く、お米も満足に取れなくて「駒立に嫁にはやるな」と言われるほどとても貧しい村でした。 そこで、戦後に義理の祖父が村の有志の方たちとぶどうを植え始めて、村一丸となって新しい産業を築き上げた。私の実家も、石屋と兼業でぶどうの栽培もしていました。

——どんな学生時代を過ごしましたか?
小学生の頃は、家の近所にある一学年が10人ほどの小さな小学校に通っていました。夫とはその頃からの同級生です。
中学生になると家から6キロくらい離れた、山の下にある中学校に通うようになるのですが、一クラス40人の世界に放り込まれ、強烈なカルチャーショックを受けてしまって。友だちと遊ぶにも遠くまで行かないといけないし、当時80年代後半はバブルの時期で世の中全体が景気よく、テレビで見るようなキラキラした学校生活に憧れていたから、地元が嫌いになりました。
——高校はどちらへ?
「都会に行きたい!」と思って、岡崎商業高校に進学しました。決め手は、通学時にQURUWAエリアの中心である康生地区を通れるから。
当時、90年代初頭の康生は百貨店がいくつもあってすごくにぎわっていました。パン屋・DONQでコーンパンを買ったり、老舗の和菓子屋・和泉屋でおでんやみたらし団子を食べたり。高校時代はお金こそなかったけれど、毎日200、300円だけ使って遊んでいました。映画館もあったので、デートをしに行ったこともあります。振り返れば、人生で初めての「買い物」は、全部康生だった気がします。

人生を変えた、
ひとりの販売員との出会い
——そこから、どうして販売員の道に進まれたのですか?
高校3年生のとき、友だちの付き添いで、ショッピングセンター・岡崎シビコの1階にあった宝石屋「ツルカメジュエリー」に行ったのがきっかけでした。セーラー服姿だった私に、スタッフの方が「指輪、つけてみる?」と声をかけてくださって。
ダイヤの指輪を指に通したとき、その綺麗さに感動したんです。「あなたの指の形には、こういうデザインが合うよ」と丁寧に教えてくれるお姉さんの姿を見て、「この人素敵!私もここで働きたい!」と、衝動に駆られました。
——ひとりの販売員の方との出会いに、影響を受けたんですね。
そうなんです。でも、学校の先生に相談したら「この会社は大卒しか採用していないから無理だ」と言われて。諦めきれずにもう一度お店へ行ったら、オーナーが名古屋の本社に掛け合ってくださって、私だけ高卒で採用してもらえることになったんです。
1994年に就職してからは、「周りの大卒の人たちに負けたくない!」という気持ちで、がむしゃらに働いていました。接客を通してお客さんが輝いていく姿を見るのがとても嬉しかったですね。販売員が自分に向いていたおかげで、仕事が大好きになりました。

——その後も、販売員の仕事を続けられたのですね。
一度、医療事務も経験しましたが「やっぱり私は販売業に関わりたい」と再確認して、次は化粧品の販売員になりました。名古屋駅近くのデパートのオープニングスタッフに選ばれるなど、当時は仕事も遊びも都会が中心。すっかり「都会の人」になって、地元にはまったく目を向けていませんでした。
揺れる心の中で決めた
駒立へのUターン
——都会での生活を満喫していた利枝さんが、同級生だった旦那さんと結婚を決められたのはなぜですか?
当時は、「ホワイトカラーの仕事をしている人と結婚するんだ!」と意気込んでいたんです。でも、いざお付き合いしてみると、どこか自分の中でピンとこない部分があって。
都会での生活が続いたときに、ふと「鳥のさえずりが聞きたいな」とか「ゆっくり深呼吸できる場所に行きたいな」とため息をつくことがあって。今思えば少し疲れていたんだと思います。
そんなときに、パートナーとして頭に浮かんだのが、実家の隣にあるぶどう農家「マルタ園」の次男で、ずっと友達として遊んでいた今の夫でした。彼と一緒にいるときが一番楽しいし、何より楽だったんです。私は自然の中で育った人間だから、根っこの「感性」が合う人と一緒にいるのが、一番自分らしいなと気づきました。
——大好きだった仕事を離れて駒立へ戻るのには、大きな勇気が必要だったのではないでしょうか?
2000年代に入って、私が26歳のときに人生の転機がいくつも重なったのが大きかったです。結婚してからすぐに、私の父が事故で急逝し、そのころ妊娠4ヶ月目でした。当時は今ほど育休制度も整っていなかったし、父亡き後の実家の状況やこれから生まれる子のことを考えたとき、名古屋まで通い続けるのは無理だろうと。
販売員の仕事に区切りをつけて、「ここしか働く場所がない」と決意して、マルタ園で働き始めることにしたんです。

農業が教えてくれた子育てのヒント
——マルタ園で働き始めてからは、どのような日々でしたか?
最初は、とにかく「嫁」や「母」や「妻」としての役割をまっとうすることに必死でした。2002年に長男、2004年に次男を出産し、子どもをおんぶしながらの農作業。私よりもずっと長く働いているパートの方たちもいて、自分を思うように出せず苦しさを感じることの方が多かったです。
——そこから、地元や農業への見方が変わるきっかけがあったのでしょうか。
義理の母と山に入って作業をする時間が増えたことが大きかったです。
一緒に手を動かしながら駒立の歴史や背景を聞いていると、祖母が幼少期に教えてくれたことが胸にすとんと落ちてきて、自分の生い立ちの答え合わせをしているような感覚がありました。
以前は、「農業って生産性が悪いし、なんでお金にならないことを続けているんだろう」なんて思っていたんです。でも、実際に土に触れてみると「自然相手の仕事は自分の思い通りにコントロールできない」ということが身に染みてわかりました。
——コントロールできないものがある。大きな気づきですね。
そうなんです。それが子育てとリンクしたんです。
息子が保育園に通っていたとき、「集団生活で問題がある」と先生から指摘されたことがあって。母親として、すごくショックでした。
でも、一緒に働いていたパートさんたちにそのことを話したら、「そんなのあるある!」「昔の子なんて、みんなそんなもんだったわ」って声をかけてくれてホッとしたんです。「子どもは型にはめるものじゃない」と考えられるようになって、それが農業と結びついたんです。農業での実体験に支えられながら、子育てに向き合っていた時期でした。

農家の価値を「感じる」場づくりから
新たなトライへ
——「嫁」という立場で農家に関わる中で、「もっとこうしたい」と模索し始めたきっかけは何だったのですか?
マルタ園で働き始めてから、ぶどうづくりのプロセスにとても価値があることを知った一方で、農家が疲弊している現実も目の当たりにするようになりました。
「遊びに来てもらえるよう」にとつくった観光農園だから、「わざわざこんな田舎まで来てくれてありがとう」という思いで、もてなしすぎてしまう傾向があって。時間無制限のぶどう狩りのプランの中で、お客さんの中には控えてくださいとお願いしているぶどうの持ち帰りをしている方もいました。
——農家の思いが、消費者に伝わっていないもどかしさがあったのですね。
そうなんです。「農家が大切に育ててきた背景を知ってもらえたら、ぶどうや農家へのリスペクトが生まれるかもしれないし、それが商品価値を上げることにもつながるはずだ」と考えました。
とはいえ、私は嫁いできた身。ぶどう畑は義理の両親や義兄が主だったので、園内に併設されているバーベキュースペースだったら自由にやらせてもらえるかもしれない。そう考えてイベントを企画し始めました。もともと知り合いで、かつて籠田公園の北側でバナナジュース屋を手がけていた「NEWSTAND WOW」の長尾さんにピザ窯をつくってもらってワークショップをしたり、パン教室を開いたり。お客さん自身がバジルを収穫し、香りを嗅いで、自分の手でピザをつくる。そういった「感じる」ことを大切にした場を模索していきました。

欲しい暮らしは、自分でつくる
——マルタ園での活動が、リノベーションスクール(以下:リノスク)への参加へと繋がっていくのでしょうか?
活動の記録をずっとFacebookに載せていたのですが、それを「岡崎まち育てセンター・りた」で当時働いていた山田高広くんが見ていて、2015年の秋頃に「リノスクの1期生として参加してみませんか?」と声をかけてくれたんです。
——すぐに「参加してみよう」と思えたのですか?
いえ、当時は中学1年生の長男が不登校気味になっていた時期で、葛藤がありました。
学校での苦労に直面した息子から、「どうして、敷かれた人生のレールに乗らなきゃいけないの?」と聞かれたとき、私は「レールなんて乗るものでしょ!」と返してしまったんです。そこから息子は段々と学校へ行かなくなりました。私自身が「嫁」や「母」という役割を果たすことに精一杯だったから、息子の問いに対してそんな言葉しかかけてあげられなかった。それが本当にショックでした。

——一歩踏み出せたきっかけはなんだったのですか?
たまたま参加していたQURUWAのシンポジウムで聞いた、「欲しい暮らしは、自分でつくる」という言葉がきっかけでした。
気づけば私は「普通のお母さんでいないと子どもに迷惑がかかる」と思い込み、守りに入ってしまっていた。でも、その一言で「あ、自分でつくっていいんだ!」とハッとしたんです。息子に「レールは乗るものだ」としか言えなかったのは、私自身が、自分の人生をやりたいことで生きていなかったからだと気づきました。
——それで、リノスクへの参加、そして「wagamama house」の立ち上げを決意された。
はい。「ここでやらなきゃ後悔する」という一心でした。スクール期間中、リスクを恐れて事業プレゼンに踏み切らない周囲の様子を見て、「それなら私がやる!」と勢いで宣言したんです。 もちろん事業計画なんて立てたことがなかったので、「どうやって成り立たせるんだ」と詰められたこともありました。
——どうして「wagamama house」という名前になったのですか?
仲の良い女性たちに「協力してほしい」と声をかけたらすぐに集まってくれました。そこで「私だったらこんなことがしたい!」「保育の現場の課題を解決するためにこれがしたい!」と、それぞれが抱えていた想いを楽しそうに話し合っていて。それを見ていた山田さんが「わがままだな(笑)」と言ったのがきっかけで、「wagamama house」という名前に決まったんです。
女性たちの「やりたい」をサポートする場であり、私自身が欲しかった「テイクアウトのお惣菜屋」を併設させることで売上をつくる。そうして2016年の10月、QURUWAエリアにてオープンさせました。

息子の変化と、
wagamama houseでの学び
——子育ても大変な時期に、未経験からの事業の立ち上げ。相当な苦労があったのではないでしょうか。
リノスクでの宣言から、わずか数ヶ月での開業。もう怒涛の日々でした。
長男は不登校が続いていて、部屋にこもったまま。「ごめん、お店を開けなきゃいけないから」と、姿の見えない息子に朝泣きながら声をかけて、家を後にする。お店に着いてからも、息子のことを心配しながらお惣菜をつくっていました。
——そんな状況から、どんな変化があったのですか?
忘れもしない、2016年12月22日、中学2年生の2学期終業式の日です。その日も息子は部屋から出てこられず、実母に「子どもの様子を見ておいてほしい」とお願いして、後ろ髪を引かれる思いでお店に向かいました。
ところが昼時、制服を着た息子が、母に連れられてwagamama houseにご飯を食べに来たんです。お店のドアが開いて、彼の姿が見えた瞬間、私は思わず号泣してしまいました。

——息子さん自身が、会いに来てくれたのですね。
その時、「私ひとりの力で育てようとしなくていいんだ」と心が解けたんです。自分ひとりができることは小さいけれど、必死に挑戦を続けていれば、それを見て何かを感じてくれたり、助けてくれる人が現れたりする。人生って、そういうものなんだと、身をもって感じました。いい意味で子育てへの執着を手放せた瞬間だったと思います。
——そしてその後、wagamama houseを6年3ヶ月続けられた。
コロナ禍を経て売り上げが減少したことや家賃改定が重なった時期に、限界を感じるようになりました。本当は続けたかったけれど、一方でマルタ園も、人手不足やシステムのアップデートが追いつかず、かなりしんどそうな状況でした。その様子を見て「今が辞めどきかな」と考えるようになり、2022年にお店を閉じました。

マルタ園での新たな挑戦ーー
「私が私として」
——かつて苦しさを感じていた「嫁」という立場に戻ることへの不安はありませんでしたか?
もちろんありました。でも、当時のマルタ園が抱えていた課題は、wagamama houseでの経験を活かせばきっと改善できる、という確信があったんです。だから、立場に縛られるのはもうやめて、「私が私として」マルタ園に関わろうと決めて戻りました。
まずは小屋の掃除から始めました。周囲からどう思われてもいい、という覚悟を持って。そこからレジシステムを導入し、バックオフィスを整えるなど、経営の土台をつくっていきました。
——2024年には園内に「maru cafe」もオープンしていますよね。
コロナ禍を経て使われなくなっていたバーベキュースペースを見たとき、「ここは絶対にカフェにした方がいい」と直感したんです。カフェなら一年中、人が遊びに来てくれるし、ぶどうジャムやジュースなどの「すでにあるもの」を活かして、新しい価値をつくることができると考えました。
カフェを始めるにあたって、リノスク時代から親交のあった「Studio36一級建築士事務所」の畑克敏さんに、農家の課題や展望を相談したところ、QURUWAエリアで多くのデザインを手掛ける「KERUN DESIGN OFFICE」のグラフィックデザイナー・岡田侑大さんも参画してくれることになり、結果としてマルタ園全体のリブランディングをすることになりました。
——リブランディングを経て、どのような変化がありましたか?
岡田さんの丁寧なヒアリングを通して、「農家さんは、ぶどうの一房ではなく「一粒」を見て仕事をしているんですね」と、私たちが当たり前に思っていたこだわりを拾いあげて可視化してくれたんです。
想いがロゴやサインとして形になったことで、自分たちの仕事に自信が持てるようになりました。それが後押しとなり、勇気を持って単価を上げる決断もできました。

——まちとのつながりが、マルタ園に新しい風が吹くきっかけになったのですね。
農家だけで、農業の課題は解決できません。例えば「駒立町だけ」で人を呼ぼうと思うとどうしても限界がありますし、農業や里山の価値も伝わりづらい。だからこそ、まちの人の視点や専門性を借りて、まずは「入り口」をつくることが大切だと思ったんです。実際にカフェができたことで、ぶどうの商品価値も上がりました。インスタグラムなどの発信も含めた園全体の雰囲気が整ったことで、結果として、売上も自然と伸びていきました。

—— 現在は、新たな取り組みとして園主(義兄)の伸宏さんと一緒に再び事業版のリノベーションスクール(以下:事業版リノスク)にも参加されているんですよね。
wagamama houseを立ち上げたときの個人版リノスクと異なり、企業を対象とした事業版リノスクに集まる方たちは、ビジネスをしながら「まちを良くしたい」「課題を解決したい」という志を持っています。だからこそ、農業一筋で職人気質の園主も、参加者の皆さんと通じ合う部分があって、すごく前向きに取り組んでいます。
それに、ほかの参加者の方たちが「農家ってすごい」と新鮮なリアクションをしてくれるんです。これまでは「山の中でぶどうをつくっている自分たちなんて」という感覚がありましたが、皆さんのおかげで、園主も、そして私自身も「価値のあることをしているんだ」と、より自信を持てるようになりました。

農家の課題を解決する
女性たちの力
——農家にはない視点がまちの人にはあるというお話に、農業の課題を解決するヒントがあるように感じました。
そうなんです。農作物を買うお客さんはまちの人だから、そのニーズに応えていく必要がありますが、農家だけではその視点を持つことができないんです。
wagamama houseをやっていて本当に良かったなと思うのは、まちに暮らす方たちとの関係性を築けたことです。今、マルタ園が抱える課題をまちの人たちが間接的に解決してくれています。その筆頭が、パートとして働きに来てくれているお母さんたちです。
——まちから働きに来るお母さんたちの存在が、どのように農家の力になっているのですか?
彼女たちのポテンシャルは本当に素晴らしいんです。子育てで一度キャリアを離れていても、前職で培ったスキルに加えて、育児を通して磨かれた「深い思いやり」や「マルチタスク力」が備わっている。
お母さんスタッフのひとりである井上さんは、この2年間でぶどうに関するデータをコツコツと記録し続けてくれました。その蓄積が、販売促進に仕掛けられるようになったんです。
「子育て中で働き口に困っている人」と、「困っている農家」をマッチングすることが、これからの一次産業を支える力になるとわかってきました。
——まちから山へ働きに来ることで、お母さんたち自身にも変化はありますか?
言葉にするのは難しいのですが、山で風を感じ、四季の移ろいに触れる中で、みなさんの心が軽やかになっていくのを感じます。「お母さんたちの居場所が少ない」ことは、これまでも強く感じてきましたが、農家が彼女たちの受け皿にもなれるんだなと実感しています。

「私らしく」いることが、
まちや里山への貢献になる
——新しく利枝さんが立ち上げた「utsukushi」について教えてもらえますか?どのような想いを込めたのでしょうか?
「農家はこんなことに困っていて」というと、率先して協力してくれた方の多くは女性でした。でも、皆さん本当に素晴らしい方たちなのに、「自分なんて……」と一歩引いてしまう。
私がwagamama houseを運営できたのは、決して私がすごい人だったからではありません。むしろ、自分の「できないこと」がわかっていて、周りに助けてもらったからこそ成り立っていたんです。つまりは誰もが、自分らしくいるだけでまちや里山に貢献できることがある。それを感じてもらえる場所をつくりたいと思い、自然・感性・地域産業をテーマに、女性が学び・つながる場「utsukushi(ウツクシ)」を2025年5月に立ち上げました。
——実際にプロジェクトを動かしてみて、どうでしたか?
utsukushiのプロジェクトのひとつとして、「hanastudio(ハナスタジオ)」というプログラムを同年の12月にリリースしました。当初は「講座」というビジネスモデルを考えていましたが、そうなると集客がどうしても「不安を煽るような形」になってしまうことに違和感を覚えました。それは私がやりたいことではないなと。
そこで今回は準備期間としてテストプログラムを実施してみて、次回からは補助金などを利用して金銭的なハードルを下げて、誰もが参加しやすい仕組みで再スタートさせる予定です。

——「私らしく」いることが、マルタ園や里山の未来ともつながっていくのですね。
そうなんです。
「私らしさ」を大事にしながら挑戦していきたいことが、大きく2つあります。ひとつは、先ほどお話しした「子育て中の女性」と「困っている地元産業や事業者」を繋ぎ合わせ、新しい働き方の仕組みをつくること。
そしてもうひとつは、農地を守るプロジェクトです。この地域の田んぼは、あと10年も続かないのではないかと言われています。担い手の高齢化や維持費の問題など課題は複雑で、耕作放棄地が増えれば土壌の環境が変わり、ぶどうづくりもできなくなってしまいます。
この問題を農家だけで抱え込まずに、農地を守っていきたい。農作業・農産物の価値や里山に一次産業があることの豊かさを、押し付けがましくなく、けれど大切に。皆さんと協力しながら、次世代へ、そしてまちの人たちにも丁寧に伝えていきたいです。

中根利枝
岡崎市駒立町出身・在住。高校卒業後、ジュエリーや化粧品の販売員としてのキャリアを積む。結婚を機にUターンをし、ぶどう農家「マルタ園」へ就農。2016年のリノベーションスクールへの参加を機に、女性の「やりたい」をサポートする拠点「わがままハウス」をQURUWAエリアにオープン。2023年にマルタ園へ活動の軸足を戻し、現在は「maru cafe」の運営や女性の学びの場「utsukushi」を主宰。農家とまちを繋ぎ、里山の新たな価値を編み直す挑戦を続けている。
<マルタ園>
HP:https://marutaen.net/
Instagram:https://www.instagram.com/marutaen_budou/
<utsukushi>
Instagram:https://www.instagram.com/utsukushi.life/
<利枝さん>
Instagram:https://www.instagram.com/rie.nkn/
撮影(特記なき場合):Okazaki Micro Hotel ANGLE
取材・執筆:平良涼花
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平良涼花 / Okazaki Micro Hotel ANGLE マネージャー
2002年生まれ、岡崎市出身。国内を転々とする多拠点生活を経て、地元岡崎市に根付く事業に取り組むため2021年からアングルスタッフに。アングルのコンセプトである「暮らし感光(観光)」をテーマに、イベント企画・運営や広報などを担う。
公開日:2026.01.31

