あの人のトライ:Lapel 船越誠さん
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愛知県岡崎市の「変わるまちなか」QURUWAエリアで、日々トライを続ける方々のお話を聞いていくシリーズ「あの人のトライ」。このエリアは、賑やかな公共空間や多様なお店が集まる場所であると同時に、手を動かして「ものづくり」に励む職人たちの活動もまた、まちの豊かさを支えています。
今回登場いただいたのは、連尺通りにある「一隆堂ビル」の4階に工房兼ショールームを構え、ビスポーク(オーダー)で革靴を製作している「Lapel(ラペル)」の船越誠さんです。
船越さんは船会社での10年間のサラリーマン生活を経て、30歳から靴づくりの道へ。師匠探し、修理屋での経験、独学での試行錯誤を経て、自分の靴づくりをかたちにしてきました。
学生時代からそばにあった音楽への愛情と、直して履き続けられる革靴への情熱。そして、2024年から始めた一隆堂ビル屋上での音楽ライブ「ROOF TOP LIVE」。
船越さんは、このまちで何を大切にしながら、靴をつくり続けているのか。靴づくりへの思いと、まちとの関わりについて、お話を伺いました。
聞き手は、同じくQURUWAエリアにあるOkazaki Micro Hotel ANGLEの平良涼花がつとめました。

音楽好きな少年時代
——船越さん、今日はよろしくお願いします。まずは船越さんのルーツから教えてください。
豊田市で生まれ育ちました。僕が中学生ぐらいのときにバンドブームが到来して、音楽が大好きな学生時代でしたね。友達が「これ聞いてみ」ってビートルズのカセットテープを貸してくれて、影響を受けました。高校に入ってからは、楽器を触らせてもらっていましたね。
——高校を卒業されてからは、どうされたんですか?
音楽や映画が好きだったので2年間は英語の勉強をして、20歳のときに、船舶を運航して貨物を海上輸送する船会社に就職しました。業界では「船社(せんしゃ)」と呼ばれています。当時は、荷主に対して「うちの会社で荷物を積んで運びませんか」と営業もしていました。
——どうして、船会社を選んだのですか?
そこに入りたくて入ったわけではなくて。
なにも目標がなく、その仕事に就いてしまったというのが、ずっと引っかかっていました。しばらくしてから、「10年後までに、ちゃんと自分の道を決めたいな」って思ったんです。でも、何がやりたいかはまったく定まっていませんでした。
——仕事に違和感があったのでしょうか?
モノではなく、荷物を運ぶための「空間」を売っていたので、あまり実感が得られませんでした。あとは、人と人ではなく、会社と会社といった付き合いが僕にはあまり合っていなくて。自分らしく話ができない、違う自分を演じなければならないと感じていました。
革靴との出会い
買うのではなく、つくる方へ
—— 革靴と出会ったきっかけはなんですか?
仕事のひとつとして、着岸した船の船長と書類のやり取りをしていました。ヨーロッパの船長は、白いボタンダウンシャツにネクタイ、革靴も履いていて。 船長に会うときは自分自身の身なりもきちんとする必要があると感じるようになりました。
入社したてのころは、スーツなんて着たくなかった、ネクタイが苦しいな、嫌だな、みたいな(笑)。でも、仕事で多くの人に会う機会が増えるにつれて、これじゃだめだなと思いはじめて。
そこからスーツや革靴のことを調べるようになり、セレクトショップにも足を運ぶようになりました。「こういう靴があるんだ」「このスーツかっこいいな」って、自分がいいなと思うものをどんどん集めていきましたね。
—— なるほど。そこから靴により惹かれていったんですか?
靴は、壊れても劇的に直る。ビンテージやアンティーク品が好きな僕にとって、それが一番の惹かれた理由でした。雑誌でボロボロになった靴のソールを綺麗に張り替える記事を見て、「いいものって、直して長く履けるつくりになってるんだ」とグッときたんです。自分の大事な靴を実際に分解して戻してみたこともありました。
—— 分解を! そこから靴をつくることにも興味がでたんですね。
買うことってお金を貯めればできるじゃないですか。でも、つくることはごく限られた人にしかできない。
当時はインターネットから得られる情報なんてほとんどなかったので、雑誌に小さく載っている靴工房の写真を一生懸命見ていました。靴そのものよりも、「あの道具はなんだろう」「どうしてどの工房にもバケツがあるんだろう」と観察していましたね。
——そして入社から10年、会社を辞める決断をされた。
当時はめちゃくちゃ不安でしたね。でも、「靴づくりをやりたい」という気持ちの方が強かった。ここで思い切らないと、きっと自分の性格上そのまま惰性で暮らしてしまう。とりあえず1年間は暮らしていけるだけの貯蓄をつくり、2003年に退職しました。

師匠を探す長い道のり
——仕事を辞めて、まずはどうされたんですか?
靴づくりの名所、東京・浅草や大阪・大黒町へ出向いて、直接話を聞きに行きました。「それを知りたいなら〇〇さんに聞くといいよ」と教えてもらって、時間をかけていろんな方を訪ねました。
でも、手製で靴をつくる業界がかなり衰退していたので、自分がやりたい靴づくりをされている方を見つけることはできませんでした。雑誌の記事で、ヨーロッパの靴職人は修理から始めるというのを見て、じゃあまずは修理屋で働こうと。
—— 方向転換をされたんですね。
退職してから10ヶ月ほど経ったときに、一般的な修理屋が直せない靴を引き受けている工房を名古屋に一軒見つけて、「ここだ!」と思いました。自分でつくってみた靴を持参して、「ここで仕事がしたいです。ここまではなんとかつくってみています」と。それを見て雇ってもらえることになりました。
—— その工房ではどんなことを学ばれたんですか。
修理屋の親方も元々は靴職人でした。でも靴が売れなくなって、修理はまだ需要があるからと情熱を注いでいました。
ここで僕は、靴づくりや修理に使う道具の加工方法を教わりました。靴づくりの道具って買ったままじゃ使えないんですよ。角度を変えたり、先端の形状を変えたりする必要がある。修理をしながら、道具の加工についても学べたことは大きな経験でした。

——では、実際の靴づくりの技術はどこで習得されたんですか?
その工房に、かつて現役で靴を仕立てていた70代の靴職人のおじいさんが時々来ていたんです。ご近所さんの靴の修理を個人的に受けていて、手で直せないものがあるときに機械を使うために来られていました。
その方は、とにかく靴をつくることに専念してきた、生粋の職人でした。僕らの仕事を見て、ものすごいダメ出しをされるんですよ。「そんなんじゃダメだ」とか「何をやっとるんだ」って(笑)。
とにかく靴のつくり方を教わりたかったので「教えてください」って頼み込みました。その度に「嫌だ」って断られて。でもある時、「1足だけ、つくるところを見せてやる。それ以上は自分で何とかしろ」と言われ、教えてもらえることになりました。
—— 1足だけ。それでも大きな転機になったわけですね。
休日におじいさんの家を訪ねて、ビデオで撮って、メモして。見せてもらえたのは1足だけでしたが、自分がつくっている靴に対してアドバイスをもらうことは続けさせてもらいました。「これじゃダメだ」と言って、その場で糸をブチブチ切られたこともあります。
そうやって教えてもらいながら、好きなヨーロッパ工房の靴をオークションで安く買っては分解して研究する、ということも続けていました。
修理から独立へ
——修理屋での仕事は、その後どうされたんですか?
結局、靴の修理に追われてしまって、自分の靴づくりができなくなってしまって。新しい環境で働きたいと考え、名古屋で創業約100年の「乗馬ブーツ専門店」を見つけました。
当時80歳前半の同級生のおじいさんがふたりで営まれていて、「雇ってもらえませんか」と訪ねたけど、「雇えるほど仕事がない。けどまあ、続けといてよ。何かあったら声かけてあげるわ」と断られてしまい諦めました。
正直なところ、当時の修理屋ってあんまりお金にならなくて、収入が少なかったんです。家族の生活もあるし、靴をつくるための材料を買う余裕もなく、ものづくりが進んでいかないジレンマもありました。そこで修理の仕事は区切りをつけて、靴づくりを続けながら、自動車関係の仕事に就くことにしました。
—— サラリーマンと靴づくりを両立されていた時期があったんですね。
家の小さなスペースで靴をつくり、靴のオーダーを受けるために休日はマルシェへの出店を続けていました。
ある日、乗馬ブーツのお店のおじいさんから電話がかかってきたんです。「1足どうしても、急ぎでつくってほしい」と。一度も経験のない作業でしたが、やるしかないなと思って仕上げて送ったんです。そうしたら、ものすごく喜んでくれて。
——継続的なお仕事になったんですか?
しばらくしてから、また電話がかかってきて。ふたりのうち1人の方の手が動かなくなってしまったそうで、「雇えないけど、仕事を手伝ってくれるか?」と言われ、引き受けることにしました。そこから、月に4足ぐらい仕事が依頼されるようになりました。
靴づくりを何十年も続けている方から仕事を回してもらえるということは、第三者からも認めてもらえていることだと思い、自信がつきました。そこから、有名な工房からも手伝いを依頼されるようになりましたね。

——そうした依頼が増えていく中で、自分の靴づくりが生業としての道筋が見えてきたわけですね。
マルシェで出会ったお客さまが家族や知人を紹介してくれて、少しずつ、本当に少しずつオーダーの仕事が増えていきました。他の工房の手伝いと、自分の靴づくり。その2つの軸ができて、2010年頃に「Lapel」という名前を付けました。
——「Lapel」の由来はなんですか?
短くて呼びやすく、ラ行で始まる言葉がいいなと考えていたら、奥さんが「ラペルがいいんじゃないの?」って。ラペルはスーツの「下襟」のこと。革靴とスーツって連動するじゃないですか。それで、店名をLapelに決めました。
こだわりの店が点在する、
QURUWAエリアで
——ここでお店を始められたのはいつ頃ですか?
オープンは2020年の8月です。借りることを決めたのは2019年の10月ぐらい。
——それまではどこで靴づくりを?
ずっと自宅でした。「工房はどこですか?」と聞かれたときに自宅と答えると「あ、家なんだ……」と離れてしまう方もいて、工房を構えたいなと思っていました。
——どうしてこの場所を選んだのですか?
Lapelのロゴ制作を依頼したデザイナーさんが、フランスのアンティーク家具のセレクトショップ「ラトルヴァイユ」さんのロゴも手がけていました。その繋がりで店主の鈴木さんと知り合いました。当時、お店はこのビルの2軒隣で営業をされていて、「このエリアで工房を持ちたい」と話をしてみたら、「ときどき、おもしろそうな物件が出るよ」と教えてくれて。
——どんな物件を探されていたんですか?
ロードサイドじゃない、あまりひと気がないような場所で、狭い物件がいいと考えていました。そしてなによりこのエリアでお店を開きたかった。もともとこのエリアには馴染みがなかったのですが、ラトルヴァイユさんのようなこだわりのあるお店が点在していることを知って、それが魅力でした。僕みたいな靴屋があっても違和感がないまちというか。
——そして一隆堂ビルと出会ったわけですね。
「もうすぐ、このビルの4階が空くよ」と鈴木さんが教えてくれて。2016年にリノベーションされたこのビルは、中を見せてもらったら床も壁も、今のままだったんですよ。ここなら、持っている機械や道具を持ち込めば次の日からでもお店を開ける。スペースが狭くてエレベーターもなく、家賃が比較的リーズナブルだったことも決め手でした。

自分でつくったものを、
自分の手で売る
——お店を開いてみて、実際どうですか?
これまでは自宅で閉鎖的に制作をしていたので、扉を開けて、いろんな方を迎えられるようになったことがよかったなと思っています。オーダー靴は、足のサイズを測るために実際に来ていただく必要があるので、お客さんが足を運びやすくなったことも大きいですね。
—— お客さんやオーダーの内容に変化はありましたか?
これまでは会社を経営されているような中高年の男性が中心でしたが、最近では若手のサラリーマンの方が「これまでで一番高い買い物です」と言って来てくださることも増えました。こうして、まちに工房を設けたことによって、裾野が少しずつ広がっている実感があります。
——普段の営業はどのようにされているんですか?
完全予約制で営業しています。決して、お店の敷居を高くしたいわけではなくて。靴づくりにおいて途中で止められない工程がどうしてもあるのでそうしています。なので、たまにオープンデイを設けて、どなたでもふらっと来れるような日もつくっています。
——直接お客さんと接する中で、感じることはありますか?
納品のタイミングで、喜んでくださる姿を見れるのが嬉しいですね。革製品は、わずかな傷がついたり、縫い目が一針分ずれたりするだけで、すべてやり直しになってしまいます。靴づくりを始めたばかりの頃は、慣れない手つきで何度も指を切ったりもしました。そんな神経を研ぎ澄ませる大変な工程の連続ですが、僕は自分でつくったものを自分の手で売りたいという思いで船会社を辞めているので直接お話ができるのはいいことです。わざわざ東京から来てくださる方もいて、選ばれるお店になっていることがとてもありがたいですね。

まちの人たちとの
ルーフトップライブ
——2024年の春から、一隆堂ビルの屋上(ルーフトップ)で「ROOF TOP LIVE」も始められていますよね。それはどういった経緯だったんですか?
このビルに屋上があることを知ったとき、なんとなくいいなと思っていました。屋上って、僕にとって特別なんです。ビートルズの最後のライブが屋上だったり、RCサクセションというバンドの「トランジスタ・ラジオ」の曲中にも屋上が出てきたり。屋上と音楽は繋がっているなと思っていて。
——なぜライブの開催を決めたのでしょうか?
2023年9月、「小料理屋エキュメ」さんのイベントでジャズを聴きながら、ANGLEの飯田くんと「こういうのを屋上でやりたいよね」と盛り上がりました。 それと、ノラ・ジョーンズがエンパイア・ステート・ビルの屋上でおこなったルーフトップライブを見て「一隆堂ビルでもやりたい!」と確信したのが決定打でした。口に出したからには、絶対に形にしたい。そんな思いで動き出しました。

——「YOSSY LITTLE NOISE WEAVER」さんに出演を依頼したのは?
YOSSY LITTLE NOISE WEAVERのおふたりは、解散してしまった僕の好きなバンド「DETERMINATIONS」のメンバーでした。YOSSYさんはキーボードとヴォーカル、icchieさんはトランペットとトロンボーン。せっかく屋上でライブをやるのなら、トランペットの音色が空に消えていく感じがいい。それにキーボードの音もあるといい。これはもうふたりしかいないと。ダメ元でメールを送ってみたら、引き受けていただけることになったんです。
——ライブを開催するにあたって、まちの方々と協力されていますよね。
自分ひとりではいいものはつくれないと思っていました。このまちは、こだわりを持ってお店を開いている、尊敬している方々がたくさんいるので、みなさんの力を借りることができれば、もっといいライブができるんじゃないかなと。
ドリンクは、このビルの1階で喫茶を営まれている「一隆堂喫茶室」さんに依頼。お弁当は、ライブのきっかけをくれた「小料理屋エキュメ」さんに。そして、企画や集客に加え、アーティストの滞在先としてホテル「ANGLE」の飯田くんにも協力してもらいました。
歩いて行ける範囲にお願いできる方たちがいることは、やっぱりこのまち特有の良さだなと思います。YOSSYさんもライブ中に、「このまちって、いろんなお店や場所があっておもしろいね。ゆっくり歩きたいよね」とおっしゃっていました。
——今年もライブは開催されますか?
もちろんです。運動会みたいに、毎年恒例の行事にしたいですね。2年連続で来てくださったお客さんがとても多かったんです。ライブのたびに「この1年、みんな元気にしていましたね」と言って集まりたい。
一昨年も去年も、天候に恵まれず屋上での開催を断念し、4階の「一隆堂読書室」のスペースでの開催となりました。次回こそは屋上でライブがしたいです。
——ライブを通じて、靴づくりにも変化はありましたか?
実は、ライブをきっかけに工房を訪れてくださった方がいたんです。前からLapelのことは知っていたけれど、工房に来るのは少しハードルが高いと感じていたそうで。ライブで工房の雰囲気を見て、そこから革靴をオーダーしてくださいました。ライブと本業がリンクしていくのは、思わぬ嬉しい繋がりでしたね。

新ラインへのトライと、
これからの模索
——これからの展望はありますか?
3つあります。1つは、オーダー以外の靴づくりを広げていきたいです。
オーダーって受け身なんです。お客さんの「こういう靴が欲しい」という要望に答えていくもの。それがやりたくてこれまでオーダー一本でやってきましたが、もう少し裾野を広げたい。これからは自分の方から、僕がつくりたいと思うものを発信していこうかなと。
——具体的にはどんなものを?
「Bm7(ビーマイナーセブンス)by Lapel」という新しいラインを、2025年の10月に立ち上げました。靴のデザインと革の色は統一、サイズを展開しています。価格を6分の1ぐらいに抑えて、もう少し手に取りやすいものになりました。

——名前の由来はなんですか?
「Bm7」は、音楽用語の「Bマイナーセブンスコード」です。
音楽について語れるほどではありませんが、このコードがもつ、どこか切なく深みのある響きのように、静かな余韻とやわらかな感情を宿した靴を展開したい。そんな思いからこの名を付けました。
Bm7 by Lapelでは白い革を使用しています。白い革がもつ余白のような静けさが、日々の装いと心にそっと寄り添う存在になってほしいと願っています。
——2つ目の展望は?
これはものすごく難しいことですが、SNS離れをしたいです。SNS以外での商売の可能性を探したい。
僕はインターネットが整っていない時代に、いろんなものを集めたり、いろんな人に会いに行きました。不便だったからこそひとつひとつに重みがあって、それがよかったなと思うんです。でも、今の時代に商売をやるには発信も大事。そのバランスはこれから模索していきたいです。
——そして、3つ目は。
お店を続けて、しっかり残していくことです。これは商売として最低限のことではありますが、このまちに「手製で靴をつくるお店があること」自体がとても大事だと思っています。 いろんな店やいろんな人がいることが、まちの豊かさにつながっていく。僕はそう考えています。
——これからの船越さんの靴づくりが楽しみです。今日はありがとうございました。
ありがとうございました。

船越 誠
1973年生まれ、豊田市在住。船会社を退職後、独学と修行を重ねて靴職人の道へ。2010年に「Lapel」を立ち上げ、ビスポーク(オーダー)で革靴を製作。2020年8月、一隆堂ビル4階に工房兼ショールームをオープン。一足一足、丁寧に手製靴をつくり続けている。2024年春からはビルの屋上で音楽イベント「ROOF TOP LIVE」も主催。
<Lapel>インスタグラム:https://www.instagram.com/lapelbootmaker/
撮影(特記なき場合):Okazaki Micro Hotel ANGLE
取材・執筆:平良涼花
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平良涼花 / Okazaki Micro Hotel ANGLE マネージャー
2002年生まれ、岡崎市出身。国内を転々とする多拠点生活を経て、地元岡崎市に根付く事業に取り組むため2021年からアングルスタッフに。アングルのコンセプトである「暮らし感光(観光)」をテーマに、イベント企画・運営や広報などを担う。
公開日:2026.01.16

