あの人のトライ:岡崎まち育てセンター・りた 天野裕さん

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「QURUWA」という言葉が生まれる前から、この地でまちづくりの活動を地道に続けてこられた方たちがいます。

その一人が、岡崎市で生まれ育ち、竜美南地区にある「奈良井公園」のリニューアル、「図書館交流プラザ りぶら」の計画づくりなど、このまちの公共空間に大きく貢献してきた「岡崎まち育てセンター・りた」(以降、「りた」)事業企画マネージャーの天野裕さんです。

天野さんが岡崎のまちづくりへの意識をどんなふうに育んできたか、そもそも天野さんがまちに向き合うきっかけはどういうものだったのか、ということから、「QURUWA」がどうやってはじまったのかまで、時系列でおうかがいしました。

学生時代のバンド活動からまちづくりへ

天野さんと岡崎のまちとのつながりは、高校生の頃に遡ります。当時バンドを組んでいた天野さんは、よく遊びに来ていた康生地区で屋外ライブをしたいと思ったそう。目をつけたのは、当時多くの人で賑わっていたシビコの西側にある広場でした。許可をもらいに岡崎市役所やシビコに行くものの、「許可する」の言葉はなかなか言ってもらうことができなかったそう。諦めずにシビコの周りの店を仲間と手分けして一軒一軒回って許可を貰い、屋外ライブを開催することができました。

ライブは回を重ねる毎に大きくなり、全国から数百人もの観客が集まるようになりました。岡崎でのバンドムーブメントは15年から20年も続いたそうです。天野さんは当時をこう振り返ります。

当時、シビコの周りには人が多く行き交っていたので、ライブハウスには来てくれないような人も足を止めてくれ「これだ!」と感じました。見てくれる人もだんだん増えて、自分たちのスキルも上がりました。
正攻法で行ってみたら、市は「シビコに言ってもらえる?」、シビコは「市に言ってもらえる?」となってしまったんですね。だったら誰から許可を得るべきか、を考えてお店一軒一軒に回って許可を得ていきました。
そして始めた結果、遠くからも人が来てくれるようになった。やりようによってはできるし、やったことで広がる世界がある、と思いました。

この経験が結果的に、まちづくりへの興味に繋がったのだそうです。

シビコ西側で開催された音楽ライブ(天野さん提供)

奈良井公園でのトライ

岡崎を離れ東京の大学へ進学し、都市計画を勉強していた天野さん。しかし都市計画はシビコのライブのような新しい文化を後押しするものではないと感じたのだそうです。

都市計画は、橋や道路をつくったり公園を整備したり、大勢の人が住みやすいように基準をつくり住環境の底上げを図るには必要です。しかしある程度成熟してくるとどこも同じようになってくる。
住民ひとりひとりが思う「もっとこのまちがこうなったらいいのに」という思いにに手厚く応えるのは難しい。ならば自分で動くしかないと気づきました。

時は1999年、竜美南地区にある「奈良井公園」が貯水池設置工事で全面使えなくなっていたこの期間を利用して、天野さんは公園をリニューアルできないかと考えました。

元々は「だだっ広い普通の公園」だった奈良井公園でしたが、周辺住民の「こうなったらいいな」という理想像をまとめ、それをもとに公園を再整備し、ポジティブなまちをつくっていきたい、と考えたそうです。

「僕らの出番ですよ、二人で仕掛けていこう。」

そんな最中に世田谷で出会ったのが、岡崎の同じ小中学校出身の三矢勝司さんでした。二人は、いずれ地元でまちづくりを仕掛けようと意気投合し「岡崎CDC(Comunity Development Corporation)研究会」を発足。これが現在天野さんが事業企画マネージャーを務めるNPO法人りたの前身です。

岡崎市の公園緑地課に「今、工事で使えなくなっている奈良井公園を元に戻す際、地域住民の意見をまとめて新しい形にリニューアルできないか」と提案しに行きました。しかし返事は「東京ではそういうことができても、岡崎では難しい」というものでした。

そこで、天野さんたちは町内会長さんや子ども会役員にアプローチし、ワークショップを開き、住民の意見を逐一市に報告、提案。紆余曲折を経て、その提案が採用されることになり、足掛け10年程かかりながらもやっとの思いで奈良井公園のリニューアルを達成できたそうです。結果的には、駐車場がつくられるくらい人で溢れる公園になったそうです。

現在の奈良井公園

僕らが気づいてしまった松本町の価値

この奈良井公園での活動が足掛かりとなり、2006年にりたが生まれます。「図書館交流プラザ りぶら」開設の際に市民と行政との橋渡し役になるなど、活動の幅を広げましたが、天野さん自身は徐々にジレンマを感じるようになったそうです。

行政が市民に意見を聞く市民参加の機会が設けられるようになり、僕らもコーディネーターとしての仕事が増えていきました。でもそうした場は、市が必要と判断した場合しかつくられないし、意見を採用する/しないも行政の都合で決まる。
本当に僕らがいいなと思っているものを仕事にできない。行政側が最終決定をすることに限界を感じるようになりました。

そんな悩める天野さんが出会ったのが、松本町でした。2011年頃のことですが、このまちには路地があり、木造アーケードがあって、古き良き時代のまちなみが残っていて、「こんな場所があったんだ!」と驚いたそうです。

空き家が多くひっそりとしているけど、空き家を使ってお店とかやったらすごく魅力的だと思ったんです。役所も公共事業としてやるにはハードルが高く、片や民間企業もそこに不動産的な価値があるとか魅力的だとか思ってなくて、これは僕らが気づいてしまったすごい価値だなと。
地域の人の意向も踏まえて実現にこぎつけるのはきっと大変だけれど、空き家も解消しながらこのまちを活性化させたいとアプローチしにいきました。

松本町の魅力について、天野さんはこう語ります。

路地って今はあまり残っていないんです。緊急車両が入れず危ないから道を広げて車が通れるようにしていく、というのがまちづくりの基本で、狭い路地に面した家は建て替えができません。そんな絶滅危惧種のような存在の路地が松本町にはまだ残っていて、「これだ!」と思いました。
車も通れないような細い道だけど、車が通らないからこそ道にお年寄りが安心して過ごせたり、小さなプールを置いて子供が遊んでいたり、車のためではなく人のための道路として存在している。
滲み出ている雰囲気が昔の日本みたいで懐かしくもあるし、若い人にとっては新しい、なんとも言えない居心地の良さを感じました。

松本町松應寺横丁

近所の喫茶店のマスターに相談することからはじめ、松應寺の住職や地域の役員の方と縁あってまちづくりの協議会が立ち上がります。ただ、最初は「そんなもんできるわけない」という声もありました。そこで住民アンケートをおこない、地域のニーズや課題に対応して少しずつ提案を形にしていくことで、徐々に盛り上がっていきました。

松本町には当初、建て替えられず放置された空き家がたくさんありましたが、現在は20軒以上のお店ができて、新たに商店街組織が生まれ自走するまちとなったそうです。

「QURUWA」のスタート地点

りたのまちづくりの活動を整理すると、第1期は行政の計画や事業にワークショップを通して市民の意見を伝える型をつくり、第2期では松本町のプロジェクトで地域に潜在する価値を自分たちで形にしていきました。そして第3期にあたるのが、乙川リバーフロント地区まちづくりです。

乙川リバーフロント地区まちづくりでのりたの役割は、大きく分けて2つありました。ひとつは市民や事業者が関われるようなまちのビジョンづくり、もうひとつはそのビジョンを民間主導で新しいまちの魅力をつくりながら実現していくリーディングプロジェクトづくりでした。後者は、主に天野さんが担う「かわまちづくり」。もうひとつは当時りたのまちづくり部門のマネージャーを務めていた山田高広さんが主に担う「リノベーションまちづくり」が立ち上がりました。

最初に市から打診されたのは、中央緑道整備に対する住民の意見をワークショップでとりまとめることでした。しかし当時この計画には賛否が分かれており、その状況でワークショップを開催しても建設的な対話がしづらいことが目に見えていたんです。このまま進めることに危機感を覚えて、どうせやるなら「どういう未来をこれからつくっていくのか」、「市民はどうしたいのか」まで規模を広げ、「自分たちで考えて自分たちでつくっていくんだ」というメッセージを込めて進めていかないといけない。「もっと全体のことを考えるような形にしましょう」と提案しました。

しかしそこまでの規模になると、自分たちだけで何とかできる問題ではなく、もっと経験や専門性を持った専門家たちと組まないと自分たちの手には追えないと感じたそうです。

そこで、天野さんは建築・都市デザインの専門家である藤村龍至さんに声をかけ、山田さんはリノベーションまちづくりの第一人者である清水義次さんに直談判し、二人から助言をもらいながら取り組みました。

まずはプロモーションの仕方を見直しました。「こんなハード整備をします」など行政がやることをただ知らせるのではなく、「みんなが変えていくんだ」というワクワクを感じられるような打ち出し方でポスターをつくり、そういうところから住民の見方や関わり方を変えていき、住民参加のワークショップに繋げていきました。

学生が中央緑道や太陽の城跡地の将来像を考える合宿型ワークショップ「岡崎デザインシャレット」(2015年、藤村龍至さんコーディネート)の様子(天野さん提供)

住民参加のワークショップ

QURUWAのまちづくりの活動で最も苦労したことは、住民参加のワークショップだそうです。それまではワークショップに実際に来てくれる人の多くは時間に余裕がある人で、例えば、退職したシニア層や子育てがひと段落した女性などが多かったそうです。しかしこのような一大事業になると、20〜40代の現役世代にも多く来てほしい。

そこで、周囲の来てほしい人、特に個人事業主や子育て世代、まちに何かおもしろいことをもたらしてくれそうな人をリストアップして、誰から声をかけるのかも熟考しながら100人単位で直接アプローチをしたのだそう。「僕らから声をかけた手前、かなりプレッシャーがありました。」と天野さんは語ります。

それまでは、一生懸命提案したとしても、採用するかどうかは僕らではなく行政の裁量。採用されなかったら申し訳ないという思いから自信をもって誘えないというジレンマもありました。参加者の期待に答えられるかが問われるため、今までとは違う緊張感がありました。

また、ワークショップを重ねるなかで、行政施策を単に批判するのではなく、自分たちで取り組んでいくということに考え方をシフトしていかなければならないと実感したそう。ワークショップで聞いた市民の意見を行政に届けるという初期のスタイルから、「自分たちでやるからやらせてほしい」というスタイルへ、いわば「行政主導、市民参加」から市民が自分ごととして取り組んでいく「民間主導、行政支援」へシフトしていったことが、このプロジェクトでの一番の変化だったと天野さんは語ります。

個人が「もっとこうしたい」と思うこと一つひとつに役所は答えきれないですが、そのアイデアに「それいいね。」と共感する人が10人、100人いると、自分ごとが「自分たちごと」になって、大きな力になっていく。行政が暮らしに必要な最低限の基盤を築いてくれているからこそ、その先は自分たちで叶えていくことが大切なのだと思います。

乙川かわまちづくり

ひとりひとりの「もっとこうしたい」を「自分たちごと」化して、実際に実現していったひとつが、乙川のかわまちづくりです。乙川は今でこそイベントも多く、日常的にもたくさんの人が行き交う場所ですが、一昔前までは桜の時期と花火大会の日くらいしか人が集まらなかったそうです。そんな乙川という資源を活かす方法を考え、ナイトマーケットやSUP体験、今や桜の時期の風物詩にもなっている橋詰の飲食店「殿橋テラス」が有志によって生み出されました。

そもそも殿橋テラスが設置されたのは、普段通り過ぎる場所で足を止めてもらい、川を活用することの魅力に気づいてもらうための、ここから新しい変化を生んでいくためのシンボルをつくりたいという理由が元になっていました。

橋詰に仮設のテラスをつくろうとするも、川は規制が多く、堤防の中に物を設置することで川が決壊したり、物が流されてしまうというリスクもあり、計画段階から壁にぶつかります。

橋や川の専門家に提案をもらいながら何とか計画は進みましたが、一番の功労者は、「こうしたい」に賛同してくれた人たちの協力でした。まずは足場を組み、その上にウッドデッキを敷き、さらにその上に仮設の建物を設置するのですが、台風が来そうなときは冷蔵庫等のお店の設備を一旦移動させ、建物を解体し、場合によっては足場までも解体し、台風が去ってから再度組み直すのだそうです。そしてそんな大きな台風が訪れたときにも、協力してくれる人たちと力をあわせて乗り越えていきました。

その結果生まれた殿橋テラスによって、さらに人が寄ってくれたり、「何かやってるぞ」と気づいてもらえて、川の広告塔のような場所になりました。

GWのイベント期間が終了した「殿橋テラス」

資源を使いこなすノウハウを蓄積しつつ、使い方と同時に使いたい人を探す。そのようにして使ってくれる人を増やしていくということを4、5年かけて取り組んできました。

いろんな人が挑戦する土俵を整えるのが僕の仕事です。土俵さえあればやってみる人たちが増える。その結果、自分も楽しいし、まちや暮らしが豊かになる。そういうふうに自分の活動が巡り巡っていくことにやりがいを感じています。

NPOはまず地域課題を特定して解決に取り組んでいくのが通常ですが、りたは少し違うそうです。

人々が挑戦する土俵をつくり、やりたいことから繋がったたくさんの人たちが結果的に地域の課題解決の担い手になってくれる。
日常生活とも似ていますが、顔の見える関係が増えていけば手を差し伸べてくれる人は多くなる。困った時に助かるのはそういう関係性が築かれたまち。共感を生めば生むほど網の目がどんどん広がっていきます。岡崎でもそういうことが起こっているのではないかと思います。

これから仕掛けていきたいこと

「QURUWA」がまだ「QURUWA」と呼ばれていなかった頃からこの地で活動する天野さん。個人としてはこの頃、額田地区の片麻岩の石積みに注目しているのだとか。

岡崎市の石と言えば「みかげ石」が有名ですが、みかげ石は花崗岩で職人さんには扱いやすいけれど、硬くて素人には割りにくいのだそう。それに比べて片麻岩は平らに割れやすくて、素人でも積みやすいのだそうです。額田の南部には「しし垣」と呼ばれる、かつてお百姓さんが獣害から田畑を守るために積んだものが残っていて、60kmにも及びます。

この片麻岩のしし垣はあまり知られていなくて僕も10年くらい前までなんとなく存在を知っているくらいでした。今では石積みができる人も減り、石積み自体もどんどんなくなってきている。
この景観が額田全体に残っていることが僕はすごい話だと思うけれど、地元の人に取っては当たり前すぎて価値を感じられなかったり、まちの人は存在すらも知らない。そうすると失われても失ったことにすら気づけない。だから広めていきたいんです。

続けて天野さんはこう語ります。

地元にそういう物があると、それをもっと使っていきたいし大切にしていきたいよねってなるじゃないですか。今はそういうものが無くなってきていて、コンビニやネットでどこでも買えるものってどこでつくられたものか考えないし、愛着を持てない。
そうじゃなくてストーリーを知ると見方も変わるし、大切にしたいなって思うし、自分ごとになる人が増えていく。地元への愛着とか関心を高めていくというのを石を通じて挑戦したいです。

天野さんのお気に入りの片麻岩のひとつ

次々とトライし続ける天野さん。その熱量はどこから来るのでしょうか。

みんなが気づいていない価値に僕が気づいてしまったとき。そこが本当に持っている価値と一般的な認識がズレていると、燃えるというか、ワクワクします。松本町もそういう感じで、「なんで誰もやらないの?ここすごい良いじゃん!」って。そういうのを見るとワクワクするんです。自分が気づいちゃったら自分がやるしかない。そういうのがたまに現れるんです。

天野裕
岡崎まち育てセンター・りた 事業企画マネージャー。博士(工学)
1976年、岡崎生まれ。二児の父。東京10年、メキシコ3年を経て、岡崎にUターン。路地、水辺、銭湯、昔ながらの喫茶店など、絶滅が危惧される暮らしの舞台の継承をテーマに、松應寺横丁、乙川、QURUWAのまちづくり等に携わる。最近は額田南部の片麻岩の石積みの保全・活用に注力している。

公開日:2023.06.09

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